水滸をじっくり読み丹念に用例を集めると何かしら「発見」がある。つぎの例は〈起(来)〉を調べている学生が見つけたもの。
众人叫起里面亲随,外面当直的军牢,都来看视,声张起来(第31回)
ところは惨劇後の鴛鴦楼、生き残った人たちが現場を見て騒ぎになる。2つの〈起(来)〉が現れ、それぞれ用法が異なる。〈声张起来〉の〈起来〉は「開始」を表す用法と説明できるが、〈众人叫起里面亲随〉の〈起〉はどうか? みな〈众人〉が呼んで〈叫〉、中にいるお付きの人〈里面亲随〉が起きる〈起〉、という構造になっている。〈叫起〉は〈叫醒〉と同義、この〈起〉は「起きる(起こす)」の意味になる。だがすっきりしない。
そこで我が家のネコに聞くと、「〈叫起〉で切る、ってのはどうかニャ~?」との仰せ、句読は、
众人叫起,里面亲随、外面当直的军牢都来看视,声张起来。
となる。〈里面亲随〉と〈外面当直的军牢〉を並列の関係に読むのはなるほどと思ったが、〈叫起〉で切り、〈起〉を「開始」義で解釈するのは少し無理がある、〈叫起一声〉と目的語でもあればよいのだが。そこで折衷案、
众人叫起里面亲随、外面当直的军牢,都来看视,声张起来。
はどうか? 因みに岩波文庫の翻訳には「ひとびと、奥向きのつき人や、おもての当番の兵隊たちをよびおこし、一同で見まわってみて、騒ぎ立てましたが」とある。しかし〈叫起〉の問題はやはり解決されない。
この先、ゼミ生たちがいくつ刺激的な用例を集めてくれるか楽しみだ。