昨日ちょっとした縁から高校生の「スピーチコンテスト」を見る機会があった。高等学校中国語教育研究会(関東支部)主催の「第13回高校生中国語発表大会」で我がゼミ生が高校生たちを前にかつてのスピーチを「模範」として披露する、その応援に出かけたのだ。
これまでなぜか「スピーチコンテスト」には縁がなかった。所属学科ではコンテストに出場し上位に入選する学生が毎年いる、しかし、大学生に引率は不要だ。スピーチの練習はもっぱら中国人の先生にお願いしている。自分の大学時代はどうか?今ほど多くはなかったが、スピーチコンテストは確かにあった。だが、出場する友人は周囲にいなかった。私自身も出たいと思ったことはなかった。
人前で自分をアピールするのが極端に苦手で、自分を「背景化」するのを好む性格がその原因かもしれないが、これまで「スピーチコンテスト」に対してある種の「偏見」をもっていたように思う。「スピーチといったって所詮中国人の先生に書いてもらった文章でしょ?」「自分で理解できない文章をスピーチして何の意味がるのか?」…なんとひねくれた学生だったことか、自分でもイヤになる。
高校生の発表はとても好感のもてるものだった。発表は「朗読」「暗誦」「弁論」の3部門に分かれていて、私が見たのは「弁論」の部だけだったが、必死で覚えた原稿を一生懸命練習した中国語の発音で発表していた。自分で考えた内容の原稿だが、中国語に訳された原稿の意味をきちんと理解するのも難しいだろう。そんな要求は酷というもの。かなり背伸びをした中国語の文章を覚え声に出して何度も練習する、それで十分だ、よい勉強になる。発表終了直後、審査委員から中国語で質問を受ける。高校生「弁士」に答える余裕などないだろう。質問の最中に生徒さんが漏らした一言「分からない」という日本語、その気持ちははよく分かる(でも自分の高校名は中国語で読めるようになってほしい)。
我がゼミ生の発表はさすが大学3年生、落ち着きがあった。高校時代の発表は直接聞いていないが、たぶん一番の違いは自分の原稿をきちんと理解できるようになったことではないか。中国語の原稿を見せてもらったが、かなり難しい、高校時代にこれを消化して自分のものにするのは困難だ。現在大学生になり、多くの経験によってスピーチの内容がより説得力をもつようになった。
収穫の多い一日であった。が、ゼミの教員として一つだけ注文を。これからの一年、ゼミのテーマをまとめ上げ、研究成果を自分の言葉で「スピーチ」できるようになってほしい、そうすれば本ゼミの紹介もスムーズにできるはずだ。