水滸のことば



上海雑感5

<個人レッスン1>
今回の上海滞在、メインイベントは妻のプチ留学、虹口区上外校内にある語学学校で妻は5日間の中国語個人レッスンを受けた。当初私はフリーの予定だったが、語学学校にわがままを言って先生を紹介してもらい妻の隣の教室で個人レッスンを受けることにした。語学学校は大学とは違い融通が利く、加えて個人レッスンなら授業内容も学生と先生の話し合いで自由に決められる。私から語学学校に出したリクエストは、「比較的年齢が高く女性の話し好きな方」というもの、以前我が大学で教鞭を執られたある女性の先生をイメージした。語学学校もほぼ理想的な人選をしてくれた。授業では教材を用いず中国の変化、上海の今などを聞いてみようと思っていた。

私の個人レッスンを担当する高先生は、こちらの要望通り話し好きの女性であった。予想外だった点は8年間海外(フランス)で生活経験があり、芸術家(写真や絵画)だったことか、日本語はまったくできない、フランス滞在時代および中国帰国後、主に欧米人とくに“家乐福”で働くフランス人に中国語を教えた経験がある、日本人に教えるのは今年4月以降で私が数人目だという。

授業はお互いの自己紹介から始まり、徐々に彼女が辿った人生について私がインタビューする形になった。中国語の母語話者と話す場合、こちら側はどうしても聞き手役に回ることが多い(私の場合、日本語であっても同じだが)、彼女の話からおもしろい表現を聞いたり、相手の言った表現を言い換えてみて通じるかどうか反応を見る、そんなことを試してみるつもりだった。

高先生は1958年の天津生まれ(私とほぼ同世代だ)、父親は映画制作の仕事で北京で暮らし、彼女は医師である母親と一緒に幼少期を天津で過ごした。祖父は天津で靴の工場を営み羽振りがよかったが、アヘンに手を出し没落、彼女の父親は少年時代かなり苦労し天津で日本人が経営するレストランで働いていたので、そこで日本語を覚えたとか、父親はその後東北の解放区入りし映画の道に進んだ、かなりハンサムで俳優の経験もあるらしい。

高先生は小学校入学と共に父親のいる北京へ、これから本格的に勉強という8歳の時に文化大革命が始まる。彼女たち一家は広西の南寧へ下放され、さらにはベトナムとの国境地帯にまで移り住んだ、祖父は元資産家、両親はインテリ、この時代は辛かっただろう。1978年に再開された「高考」で彼女は広西の師範学院に入学、「芸術」を専攻する(その後別の大学で「中文」の学位も取得する)。私が「1980年に短期留学で上海に初めて来た」と言うと、「そんな時代に外国人留学生がいたの?」と驚いていた。彼女は卒業後、「美術」の教師をした時期もあったようだが、主に広西の旅游局で働いていた(「外賓」の扱いに慣れているのはそのせいかな)、広西と言えば「桂林」が有名だ、彼女も場所を説明する際「広西」や「南寧」と言うべき所を「桂林」で代用していた、そのことを指摘すると、「外国人に南寧なんて言っても分からないでしょ?」天気予報で毎日聞いていますよ、省都ですから。

彼女は旅游局で景勝地のパンフ等の編集をしていた、その仕事が現在の写真や絵画につながっている。やがて香港の人と結婚、新婚旅行で上海に来たとか、その頃は私は南京で生活をしていた時期と重なる。男の子を一人産んでから彼女はフランスへと旅立つ。彼女のフランスでの生活は安定し、息子さんはフランスで教育を受け現在国際法の修士号を取るべく大学院で勉強中だ、フランス人に日本文化(アニメ)ファンが多いので祖国愛の強い彼はご立腹のようだ。

その都度横道にそれながらこんなことを3日間おしゃべりした。教室は大きなフロアを小さな区画に分けて使用している、そのため話し声が隣に聞こえることがある。私たちの「教室」だけ妙ににぎやかでほかのクラスで授業中の人たちにはさぞ迷惑だったことだろう。久しぶりに長時間続けて中国語を聞いた。日本で暮らす中国の人たちは多く日本語を解す、「私だって日本に暮らせば日本語を話すわよ、自分の勉強のためにね」とは高先生の意見、ごもっとも。そういう意味ではよい機会だった。だが90分間1対1で集中して聞くのはかなりしんどい。とくに後半30分を過ぎたあたり、話題が芸術やフランス文化になるとよりたいへんだ、話に興が乗れば「語速」は速くなる、アウェーの私は守備を固めて引き分けねらいとならざるを得ない。(続)
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by clingmu | 2007-09-09 19:15 | ひとりごと
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水滸伝の言語に興味を抱く、ある語学教師のぼやき。ときどきゼミ連絡。
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